演出家という実演家の創作性について

演出家という職業がある。戯曲に解釈を与え、俳優、小道具、照明などの視覚的要素と音楽という聴覚的要素とによって舞台として組み立てることを役割とする。著作権法において、演出家は「実演家」(2条1項4号)の一例として位置付けられており、著作物を創作する「著作者」(2条1項2号)ではないものとされている。

しかし、蜷川幸雄(1935年-2016年)という演出家がいる。小劇場で上演されるアンダーグラウンド演劇と呼ばれる芝居の俳優、そして演出家としてキャリアをスタートし、1974年の『ロミオとジュリエット』の演出で大きく評価された。その後、『NINAGAWAマクベス』などの海外公演で大成功を収め、世界的な演出家として知られた。

その『ロミオとジュリエット』の初稽古を蜷川氏が次のように振り返っている(蜷川幸雄、『演劇ほど面白いものはない 非日常の世界へ』、2012年9月5日、76-79頁)。

「稽古初日までにセリフを覚えてきてくれと言っておいたのに、主役の市川染五郎(現在の松本幸四郎)さんを除いて、誰も覚えていなかった。で、立稽古なのに、サングラスをしていたりサンダルはいたり、立ち廻りの乱闘シーンでは、座敷箒を逆さに持ってチャンチャンやったりしている。

それで頭にきて、ルネッサンスの時代に、サングラスかけたりサンダル履いたりするかって、怒鳴りました。で、休憩。二時間待つから覚えてこいと。でも、二時間待っても、翌日もセリフが入らないという状態だった。中には、本番の舞台で声が嗄れるからと言って、ちっちゃな声でセリフを言うベテランまでいて、本番で嗄れるんだったら、いまから嗄れちゃえって叫びました。・・・そこで、物を投げたんです。灰皿を投げる、靴は投げる、テーブルは蹴る。怒鳴ったり、罵ったりしながらね。・・・

僕はシェイクスピアを、それまでの教養主義的な解釈ではなく、祭りのように楽しく猥雑で、日本の現代劇にも通じる新しい舞台を創りたかったんです。・・・これだけのお金といろんな人を集めているのだから、いい仕事をして、本来演劇が持っている一種の尊厳を、取り戻そうと演説したのです。」

自らの戯曲解釈の下、俳優を鼓舞し、それまでにない清新な印象を与える舞台を生み出す。このような行為は、「思想又は感情の創作的に表現」する行為(2条1項1号)ではないのであろうか。明らかにそうであろう。景色をみた画家が自らの解釈の下で色と形と格闘し、それを平面作品として描くことと、戯曲を解釈した演出家が視覚的要素と聴覚的要素とによって俳優等の関係者を巻き込みながら舞台を組み立てることとの間に創作的価値の優劣は認められない。

しかしながら、著作権法上、演出家を含む実演家には著作者と比較して限定的な権利のみが与えられている。たとえば、戯曲作家に著作者として与えられる翻案権(著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利(27条))は、演出家には与えられない。極論として、蜷川氏の演出をアレンジした演出で同一戯曲の上演を行う演出家がいたとしても、蜷川氏は無断の翻案としてそれを止めることはできない。戯曲作家であれば、自らの戯曲に対する翻案を止めることができる。

著作権法は、さまざまなステークホルダーの利害調整の痕跡であり、現実的に機能することを優先して必ずしも美しく整合しない。しかし、舞台芸術の世界の友人からの問いで考えさせられたこの問題、つまり、演出家という実演家の創作性に対する法的評価の歪みの問題について、海外の法制を含めて考えを深めてみたい。

[参考]

福井建策「舞台公演は著作物か? 演出家に著作権はあるのか?」セゾン文化財団ニュースレター第83号