弁理士が投資家の言語を学んだ理由—特許出願を見つめ直した3年間
freeeが突きつけた問い
freeeのローンチ前日に行った特許出願は、私に一つの問いを突きつけた。いかにスタートアップにとって意味のある特許を手にしてもらうか、いかに特許をスタートアップの事業に結びついたものにできるか—しかし起業をしたことも事業を立ち上げたこともない自分にとって、この問いに応えることは難題だった。
まず手に取ったのは経営戦略書だった。W・チャン・キムとレネ・モボルニュの『ブルー・オーシャン戦略』、ピーター・ティールの『Zero to One』、そして数年間購読したハーバード・ビジネス・レビュー。スタートアップがどのように競争優位を生み出し、それをいかに守るか—特許の問いを事業の言語で考えるための羅針盤を少しずつ手に入れていった。
研鑽を積む中で、一通のメールが届いた。MIC(モバイル・インターネット・キャピタル)の元木新さんだ。
元木さんは、私の依頼者の一社に対する出資者で、その会社の特許出願を通じて間接的に繋がっていた。後にForbes JAPAN「日本で最も影響力のあるベンチャー投資家ランキング」に選出されるキャピタリストだ。
元木さんから投資家として行っている業務を聞き、そこにいかに特許出願を織り込んでいくかを議論した。VCがスタートアップに対して行う支援の中で、知財はどう位置づけられるべきか。その中で徐々に、スタートアップに必要な知財支援のかたちが見えてきた。
スタートアップの知財に光を当てた日本初の論文
元木さんとの議論をきっかけに、一本の論文を執筆した。パテント誌2014年5月号に掲載された「スタートアップの特許出願を巡る諸問題—現実とベストプラクティス」だ。
当時、スタートアップという概念自体がまだ日本では広く知られていなかった。知財の世界では「中小・ベンチャー」という表現で中小企業支援と一括りにされていた。しかし、スタートアップ固有の事情—急速な成長速度—に十分な光が当てられてこなかったことが、特許制度がスタートアップのイノベーションを下支えできていない大きな要因だと私は考えた。
この論文で私が提示したのは、ステージごとの特許戦略というフレームワークだ。その核心は、今やるべきことと後で取り組めばよいことを区別することにある。
シードステージでは、取り組む事業が新しい限り、極論すれば、他社特許の調査は不要だ。調査に費用を割り当てるのならば、事業の核となる発明について特許出願を行う費用とした方が費用対効果が高い。一方で、プロダクトのリリース後1年以内には、事業の変化・競合の出現などの環境変化を踏まえて、出願した発明をその発明の狙いである事業の実態に合わせて見直す必要がある—特許制度にはそのための仕組みがある。
この見直しを怠ると、事業がピボットしたら特許の範囲と合わず、「使えない特許」が生まれる。見直しは必要であるものの、特許庁の審査を経て権利を成立させるのは資金調達後のアーリーステージでもよい。審査の基準は出願時だから、今権利化しても後で権利化しても、理論的には結論は変わらない。こう切り分けることで、限られたリソースのスタートアップでも現実的に特許出願に取り組むことができる。
スタートアップの特許出願を直接的に取り上げた論文は、調べた限りで見当たらなかった。日本初の論文を出せる—それは、スタートアップの特許支援という独自のポジショニングの可能性を感じさせた。
2015年5月には、二本目の論文をパテント誌に発表した。「スタートアップの競争優位における特許出願の役割」だ。
一本目の論文がステージごとの実務を整理したのに対し、二本目ではより本質的な問いに踏み込んだ。なぜスタートアップに特許が必要なのか—スタートアップの競争優位が生み出される条件を理論的に整理した上で、そこで特許出願が果たすことのできる役割を明らかにする試みだ。
主張の趣旨はこうだ。スタートアップを含めて企業の競争優位は、競合に対する非対称性—模倣困難な差異—によって支えられる。模倣可能であれば、体力のある大企業に追従されて無力化されてしまう。特許権の取得は、競合が採り得る手段を減らし、この非対称性を高める。これは空港の発着枠に似ている。他社に付与された発着枠の外で運航計画を立てるしかないのと同様に、他社に付与された特許権という柵の外でプロダクトを提供するしかない。
ただし、シード・アーリーステージのスタートアップには、特許権を行使するための資金的余力がない。ここで重要なのは、必ずしも今、特許権を行使するわけではないということだ。権利行使に多額の資金を要しても、権利取得に要する資金ははるかに少額である。将来的に競争が激化したとき、それまでに成長していれば、自ら権利行使することも、提携企業に権利行使を委ねることもできる。つまり、特許権は、成功した未来に力を発揮する武器なのだ。
そして、そのような武器をもっているということ自体がレバレッジとなって、ステークホルダーの信頼を高め、成長を加速する。
アマゾン1クリック特許—売上1%の企業が市場リーダーを差し止めた事例
この論文では、アマゾン・ドット・コムの事例研究も行った。売上高がバーンズ&ノーブルの1%程度だった1999年、アマゾンは1クリック特許を武器にバーンズ&ノーブルの類似機能を差し止め、クリスマス商戦で決定的な優位を確立した。特許の成立から差止仮処分までわずか3ヶ月—売上1%の企業が、体力差を特許で覆した。米国書籍市場のマーケットリーダーが仕掛けた同質化戦略、すなわち、他社の独自性を模倣する商品・機能を提供して同質化してしまう戦略を特許権の行使により排除した歴史的な事例である。
スタートアップにとっての特許権—3つの機能:
1. 参入障壁の構築 — 特許権は空港の発着枠と同じだ。競合他社は、自社に付与された特許権という柵の中に入れない
2. 将来の武器の確保 — 権利取得の費用は権利行使の費用より遥かに少額。今すぐ行使できなくとも、成功した未来に力を発揮する武器を今、確保できる
3. ステークホルダーの信頼獲得 — 特許ポートフォリオの存在は、資金調達のDD・業務提携の交渉において、競争優位を客観的に示す証左として機能する
JVCA研修・NTVPセミナー—VCの視点を学ぶ
論文の執筆と並行して、投資家の世界を体系的に学ぶことにも取り組んだ。折しも、日本のスタートアップ投資は急速に活況を呈していた。2013年前後から独立系VCへの資金流入が本格化し、VC投資額は数年のうちにリーマン後の低迷期の500億円から1000億円、そして2500億円へと回復・急成長した。事業法人による投資額も400億円から700億円、1500億円と加速した。スタートアップへの注目は、期せずに時流に乗ったものとなっていた。
2015年6月に日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)主催のベンチャーキャピタリスト研修を受講した。この研修では、ファンドの仕組み、バリュエーション手法、投資契約などの理解を深めた。2016年5月には、日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(NTVP)主催の第8回ベンチャーキャピタリスト養成セミナーにも参加した。NTVPを率いる村口和孝氏は、日本初の独立系VCを設立し、創業間もないDeNAへのシード投資で知られるベンチャーキャピタリストだ。
こうして私は、投資家がスタートアップを評価する視点を知り、特許をスタートアップの文脈で説明できるようになった。それとともに、特許をスタートアップの時価総額の算定に反映して、定量的にその価値を評価することの難しさも知った。
名刺代わりの論文からCNET連載「スタートアップのための特許講座」へ
一本目の論文は、文字通り名刺代わりになった。「スタートアップの特許支援に取り組んでいる専門家がいる」—そういう認知が、思いがけない出会いを連れてきた。
朝日インタラクティブ株式会社でCNET Japanの編集記者を務める藤井涼さんとの出会いも、その一つだ。論文のことを聞いた藤井さんから「一度、記事を書いてみませんか」という提案をいただいた。2015年2月のことだった。書いてみると、反響は思いのほか大きかった。スタートアップと特許という交差点に関心をもつ読者が確かにいた。その反響を受けて連載「スタートアップのための特許講座」へと発展した。記事は毎回、CNETのトップページに掲載された。
連載は、投資家・起業家との新しい出会いのきっかけとなった。スタートアップの競争優位に特許は使えるのではないか?と関心を持つ人たちと繋がる回路が少しずつできていった。
オプト創業者・海老根さんとの出会い
論文とは別の経路で、もう一つの出会いがあった。
当時のある依頼者が、海老根智仁さんを顧問として迎えていた。海老根さんは、インターネット広告の黎明期に株式会社オプトを東証一部上場企業へと育て上げ、代表取締役社長CEOを務めた後、エンジェル投資を行っていた人物だ。代表例として、RTB(Real-Time Bidding)技術でデジタル広告市場を変えたフリークアウト・ホールディングスへの初期投資がある。2014年の東証マザーズ上場時には第2位株主として名を連ねた。
あるとき、その依頼者のCEOが海老根さんへの報告の中で「今、弁理士に相談して特許出願の準備をしている」と話したところ、海老根さんは「一度会いたい」と言ったという。こうして私は、当時の勤務先であった大野総合法律事務所の会議室で、初めて海老根さんと顔を合わせた。
アップルとサムスンが世界の法廷を舞台に繰り広げた史上最大規模の特許訴訟でサムスンチームの一員として特許の本来の力を目の当たりにしていた私は、スタートアップの性質を正しく理解した上でこれまでの紛争経験を注ぎ込めば、スタートアップの限られたリソースでも十分に価値を出せるという想いをぶつけた。そしてそれがさまざまな企業に投資し、自らも企業を成長させてきた海老根さんの琴線に触れた。この出会いがその後、多くの縁をつないでくれた。
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この3年間で、特許を事業の言語で語れる弁理士というポジショニングが輪郭を持ち始めた。投資家の視点を学び、論文を書き、CNET連載で認知を広げ、海老根さんという伴走者を得た。freeeの出願は一度限りの幸運ではなく、再現できる—そうおもえるだけの地図を、ようやく手に入れた。
この地図をもとに、私はスタートアップの特許に本気で向き合い始めた。—第3章では、この過程で出会ったスタートアップの中から、特に誇りとする仕事を振り返る。
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「スタートアップ知財の12年」は、2013年のfreeeとの出会いを原点に、スタートアップの知財に12年以上向き合ってきた弁理士が、その実践と問いを語る連載です。
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著者
大谷 寛(Kan Otani)
弁理士 / 森田・大谷特許事務所共同設立者
2013年よりスタートアップのための知財形成に取り組み、freee、ソラコム、ジグザグのIPO企業を含む多数のスタートアップの特許出願を手がける。2025年に森田・大谷特許事務所を設立し、生成AIを活用した知財実務の高度化に注力している。慶應義塾大学理工学部卒、ハーバード大学大学院修士(応用物理学)。2020年第1回IP BASE AWARDグランプリ受賞。IAM及びManaging IP選出の日本を代表する特許専門家。