「特許はAIに書かせれば十分」という錯覚
参入障壁—moat—は、企業が獲得しうる模倣困難性として5つもない、多くても10個だ。スピード、オペレーション、データ、スイッチングコスト、ブランド、ネットワーク効果、そして規模の経済*1。
そして、参入障壁を高める一つの手段として、特許がある。このことは、連載「スタートアップ知財の12年」の第4章でも書いた。
ここに、生成AIが地殻変動をもたらした。
生成AIに概要を伝えれば、特許出願書類のドラフトはすぐに出てくる。文体は整い、図面も生成することができるだろう。出願にかかる手間は劇的に下がった。つまり、特許出願は誰にでも、いくらでも、量産できる時代に入りつつある。
この事実から、「特許はもうAIに任せて、企業は他に集中すべき」という結論を導くのは早い。むしろ逆だ。
出願書類に限らず、アイディアを形にするコストが生成AIによって劇的に下がったからこそ、moatになる特許とならない特許の差はこれまで以上に鮮明になり、価値の二極化が起きていく。
生成AIがmoatを二極化させた
生成AIによって、文章作成、市場調査、コーディング、プロトタイピングのコストは大きく下がった。アイディアを「知る」 から「作る」 までの距離が縮んだ、と言い換えてもよい。
代表的なmoatの一つであるスイッチングコストにおいて、その変化は顕著だ。
A社の製品を使用していてB社の製品に乗り換えようとすると、データ移行が必要となり、オペレーションも変更しなければならない。日々の業務を担う担当者の再教育も必要だ。
データは特に、moatになると言われてきた*2。
しかし、ファーストムーバーとしてA社が顧客のデータを蓄積してきたとしても、A社がデータエキスポートを認めないということは困難だ。そして、生成AIに委ねれば、顧客はそのデータをB社の製品に対応した形式に数分で変換できてしまうだろう。担当者が必要な手順書を新製品のために書き直すことも即座に終わってしまう。
顧客が移行できない性質のデータを蓄積できていなければ、データはmoatにならない。
もちろん、顧客の業務に深く食い込み、あるいはネットワーク効果が生じており、他社製品に変更することのコストが甚大であれば、引き続きmoatとして成立するものの、その難易度は上がっている。B社がA社製品を模倣して類似の製品を作ることのコストが下がっている今であれば、なおさらだ。
浅いmoatは削られ、深いmoatを追い求めなければならない。
何が特許をmoatにするのか?
出願書類作成のコストが下がることで、「とりあえず出しておく」特許の数は急増する。スタートアップが投資家から「特許出願はしていますか」と問われたとき、1件より5件の方が見栄えがいい。5件より50件の方が価値がありそうだ。だから、量は出る。
しかし、五月雨式に数を重ねても moat にならない。
生成AIで特許が容易に出せるのであれば、それを代替する回避手段を見出すことも容易にできるということだ。単に生成AIに書かせた特許出願をしてみても、競合に即座に回避されてしまう。
生成AI がコストを下げる出願書類の作成は、価値ある特許を生み出す全工程の一部にすぎず、moat になる特許には条件があるのだ。
moatになる特許の条件:
- 事業の核となる価値に直結 — まず、特許の対象となる発明が、競合も類似製品を出す上で顧客に提供すべき事業の核となる価値に直結していることが求められる。そうでなければ、競合はそのような発明の外で類似製品を提供すればよいだけである。
- 回避困難な抽象度で概念化 — 次に、事業に直結した価値の実現手段が競合が回避困難な抽象度で概念化されていることも求められる。自社製品の具体的な仕様のみをカバーしていても、そのすぐ隣で同じ価値提供がなされてしまう。
- 事業進捗に応じた出願件数 — 事業の進捗に応じて、上記のような特許出願が重ねられていることが望ましい。2つ、3つと権利行使可能な権利が積み上がることで、競合の抱えるリスクは危険水域に近づいていく*3。事業が複数のプロダクトを伴う規模の大きなものであれば、必要な件数も増えていくだろう。
あなたの特許はmoatか、noiseか
これらの条件を満たすためには、事業に向き合い、真の課題を見抜き、いつ、何を出願をしていくのかという戦略性が欠かせない。
この戦略性は、特許がいかに回避されるかを身に染みて感じ、逃げ場のない発明をプロダクトから切り取る経験の累積から生まれる。私の例でいえば、時価総額数千億円から数兆円の世界的企業の紛争案件に日々携わってきた経験から、重要になればなるほど、特許は無効にされ、回避されることを目の当たりにし、再現性をもって参入障壁となる特許を生み出す方法論の構築に心血を注いできた。
出願書類の作成は、関連市場の調査、成功企業の特許分析、ローカルLLMによる発明抽出、そして出願後の振り返りといった特許を生み出すための11の工程の1つにすぎない。
書類作成の効率化に留まることなく、戦略の高度化に生成AIを組み込むことで、特許はこれまで以上に深いmoatになり得る。正しく位置づけられた出願は、特許の価値を高める。
あなたの事業のmoatは、どこにあるのか。
スピードか、データか、ブランドか、ネットワーク効果か、あるいは特許か。特許にmoatを求めるのなら、単にデータを蓄積してもmoatにならないように、単に出願を量産しても、それはnoiseにしかならないかもしれない。
あなたの特許はmoatになっているだろうか。
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注
*1 Warren Buffett が Berkshire Hathaway の 1986 年の年次書簡で GEICO のコスト優位を「a kind of moat that protects a valuable and much-sought-after business castle」 と評して以来、moat は戦略論の一翼となってきた。Buffett 自身は moat を定式化していないが、年次書簡で例示してきた類型を Pat Dorsey が 『The Little Book That Builds Wealth』 (2008) で4つのmoat—無形資産、スイッチングコスト、ネットワーク効果、コスト優位—に体系化した。Hamilton Helmer は『7 Powers: The Foundations of Business Strategy』(2016)で、持続的競争優位の類型を7つのpower—カウンター・ポジショニング、希少資源、規模の経済、ネットワーク効果、スイッチングコスト、プロセス・パワー、ブランド—として論じた。Peter Thielは『Zero to One』(2014)で、利益の源泉である独占を構成する4つの特徴—独自技術、ネットワーク効果、規模の経済、ブランド—を語った。
*2 データが単独でmoatになるか否かについては、近年のVC議論で繰り返し懐疑が示されてきた。Andreessen Horowitz “The Empty Promise of Data Moats“(Martin Casado & Peter Lauten, 2019)は、多面的な分析を行い、データだけではmoatにならないと結論した。Sequoia Capital “Generative AI’s Act Two“(Sonya Huang, Pat Grady & GPT-4, 2023)は「data moats are on shaky ground」 と述べ、同様に結論づけた。他方、物理世界からの収集を要する領域においては、データ収集が依然として高コストであるため、moatになり得るとする見方もある。
*3 筆者は、CNET Japan掲載の「どこまでやればいい?スタートアップのための特許戦略のKPI」という記事で、新たな市場を切り開くファーストムーバーは「どの程度の取り組みをすればよいのか?」という問いにつき、プロダクト当たりの出願件数(PPP)をKPIとしてPPP>2という指標を提案した。生成AIによって模倣の壁が下がっている昨今、3件よりも多くというニュアンスを強めてPPP≧3と表現してもよいかもしれない。
著者
大谷 寛(Kan Otani)
弁理士 / 森田・大谷特許事務所共同設立者
2013年よりスタートアップのための知財形成に取り組み、freee、ソラコム、ジグザグのIPO企業を含む多数のスタートアップの特許出願を手がける。2025年に森田・大谷特許事務所を設立し、生成AIを活用した知財実務の高度化に注力している。慶應義塾大学理工学部卒、ハーバード大学大学院修士(応用物理学)。2020年第1回IP BASE AWARDグランプリ受賞。IAM及びManaging IP選出の日本を代表する特許専門家。連載「スタートアップ知財の12年」。